毎日、何かを食べ続けなければ、「生命維持」ができない。
じゃあ、「サプリメントで、栄養素だけ、とればいいのか?」
それとも、素材や調味料にこだわったものを食べ、「食べるってありがたい」「おいしいものをみんなで食べる(いただく)ってありがたい」と、「食」を通して、さらに広がる世界に突入していくのか?
選択するのは、ぼくたち自身である。
大人なら「自分で選択できる」けど、子どもは「親が選択したもの」を食べている。
ぼくのいう、「食」に対する、願いは、ただ一つ。
「うまいもの」を食べさせたい。食べてもらいたい。
「うまいもの」とは、人工甘味料や合成着色料、化学調味料が、極力、入ってないもの、見ただけで、ニコニコしちゃうもの、新鮮なもの、手間ひまかけてつくった「うまいもの」である。
たとえば、きんぴらをつくる。ごま油にこだわる。火加減にこだわる。水にこだわる。唐辛子の切り方にこだわる。
日本の「素朴な」こだわった「食」の事を、ここでは「うまいもの」と、言う。
決して、ビフテキや、フォアグラ、キャビアが、給食に出るわけでない。
シルバー925のナイフやフォークを使って食べる高級ホテルの「それ」ではない。
で、結局、うまいものを食して、なにがしたいのか、というと、「うまいもの、を食べる」とい
う行為が、まちがいなく「よろこびをうみだすのだ」という、脳をつくりたいのである。
では、「よろこび」とは何か?
「食」を通して、仲間と「笑いたい」。
「子ども」が食事をして、「隣の子ども」と笑いあってるのを見たいのである。
食事が、まちがいなく、人間関係をつくる。
人間関係を「ゆたかに」していく。
私が考える「食育」とは、加工工程を「経過観察する」にとどまらないのである。
「食」をとおして、人間関係をつくりあげる事なのである。
「おいしいねえ。」って言ったら、「おいしいねえ」って、言いたいのである。
うちの園(縁)の「食」は、「それ」ができる(と思ってる)。
できる「ちから」があるのである。
それが、人間関係の最小単位である「家族」の「もと」であることは、まちがいない。
ある人は「10歳までに、うちの店の味に(脳を)慣れさせれば、その子は、うちの店の味を、一生食べ続ける。」という。
もし、これが、人工甘味料や、合成着色料などを使用した味の濃い食事だとしたら?
考えてほしい。
1)人工甘味料、合成着色料、加工食品などを10年間食べつつけた子どもと、
2)選りすぐりの素朴な素材で、作られたものを10年間食べ続けた子どもを。
その後の、二人のからだに変化が出ないはずがない(と私は個人的に思い込んでいる)。
いまの暮らしで、人工甘味料、合成着色料、加工食品をたべないのは、ほぼ不可能。
でも、この園にいる間は、
一日、三食のうち、「一食でも、できるかぎり、きちんとしたものを食べる」を繰り返す。
長い子どもで、5年(ぐらい)。
短い子どもで、3年(ぐらい)。
これを5年間の一日一食で換算してみてよう。
素朴だけど、栄養のあるもの。うまいものを10歳までに、少しでも、より多く、きちんと食べることができれば、食べていない人より、豊かな人生を送れる「確率」は、あがる。
食事は毎日の事だから、賛同してくれる方と、私は、5年間、3年間、過ごしたい。